小説の作法XYZ、の中の課題に
小説を書く目的はなんですか?というような文脈で
「復讐したい相手はいるか?」というものがある。
さすが島田先生だな、作家だな、あまのじゃくだな、
と思って読み進めていたが、ふとああ、こういうのかな、というのがあった。
誰、とまではなくて、この項目、というものだけれど、
中学から大学までお世話になっていた司法試験崩れの塾の教師のことである。
あるあるではあるが、
「大学に残って研究者になるはずが、指導教員がバカだからやめてやった。
それで司法試験を目指していたが、塾経営者になった。」というもの。
分かる人なら「あぁ」と思うだろう。
指導力がない、あるいは相性がよくない、のなら飼い殺しなどせず
リリースしてあげればいいものを、あいつはバカだ、なってない、という
形で弟子の側に責任転嫁をして若い芽をつぶす、これが一番嫌いなことである。
父親のことについても同じような項目について復讐したい、といえば復讐したい項目になるように思う。
両者に共通するのは「男の沽券」のようなしょうもないものである。
となると「小説の作法」に従うのであれば「男の沽券」というキーワードが1つの書くべきテーマの候補となりうる。
ここから先は小説の作法、で書いてあったことではないが、「男の沽券」がどうなるのか?どういうキーワードに昇華するのか?がある。
もともと時間の問題で滅びゆくものを個人的な恨みつらみで復讐「だけ」に終わらせたら読むに耐えないものでしかないからだ。
そういうことでいえば「毒親」の答えが「ときどき、慈父になる」であった。
毒親に苦しめられた者たちの怨嗟はそこで終わらず、自分たちも忌み嫌っていた毒親のようになってしまうというループに苦しむ。「ときどき、慈父になる」
ずっといい父親にはなれない。ましてや毒親の子供なのだから余計にそうである。
その諦観をベースに「ときどき、慈父になる」。
そういう意味でいうならば、「自己肯定感」なることばもこの言葉をもって自己肯定できる人は少ないように思う。少なくとも自分には無理である。「諦観」というシニフィアンによって自己肯定感のもつシニフィエは実現される。
「男の沽券」に戻すならば、「男が廃(すた)る」というものがある。
自分の場合は「男が廃(すた)る」はまだわかる、というか許容の範疇である。
いきなり「慈父」までいかずとも裏返しにして
「廃(すた)れつちまった悲しみに」
というようなタイトルをつけるとだいぶ自己満足ができる。
男の沽券などにこだわらないものの、かといって男として男が廃れない生き方までもできていない。そういう悲しみはあるけども、「演歌」でしかないので、トーンをエンタメ風に味付けするならどういう場面でこのフレーズを言わせるだろう?というようなことを妄想していく。