「親切の科学」という講演を聴きに行った。
非常にいい刺激をうけた。
どこが斬新かというとポイントは「親切をすると幸福感を味わえる」というところ。
ベースがアメリカンなのだ。
逆に言うとここでいうところの親切は「幸福でないなら親切でない」のである。
ここを読み違えている人は受講生の方でも多くいるようだった。
「親切なことをすると幸せになれるんだなぁ」
違う。幸せになるためにすることがここでいう親切なことであって、なれなかったのならばそれは親切ではなかった、という理屈である。
トートロジーのようであるけれど、個人的にはこれまで親切と思ってやってきたことを見返すべきだと受け取った。
ギブの5乗という勝間さんの教えもあるが、同様に「何をギブしてどうなったのか?」ということである。
個人的には主体的に自分にとっての幸福ってこういうものだ、という一丁目一番地があって、その為にすることが親切やギブである、という順番でないと、親切にしていればギブしていれば幸せになれる、といういかにも日本的な主体性を放棄したモードに入ってしまうと思う。
この延長線上に「がんばっていれば」「いい子にしていれば」「真面目にやっていれば」などの行動原理が生じる。
幸せというのはコーチングなどで、イメージとして実感することはできる。
ただ実現するには日常生活でイメージに近づけるための行動が必要、という至極真っ当な理屈である。
自分にとっての親切は、きちんと自分にとってのコアを把握して、それを自己開示していくことが最大の親切だと思った。
いわゆるところのタダでなにかやる、というよりもきちんとやっていることの理屈を説明して価値を伝える努力。こちらの方がよほど親切である。
単に価格設定や営業の努力を放棄して、思いに答えたいいつかわかってくれる、というのはストーカー的事業とも言える気すらする。
事業の話にしてしまったが、これを男女の関係にたとえればわかるはず。
恥ずかしいからと何も言わずに親切にし、いつかわかってくれるというよりも、こういう思いがあって、だから必要だ。一緒にやっていかない?と言う方が親切だと思う。
恥ずしさから逃れるための親切は日本的ではあるが、幸せにはなれないと思う。