ちょっと前に熱狂的に好きになるものがないので、熱狂的な巨人ファンみたいな方を尊敬する、みたいなことを書いたことがある。
改めて思うにやはりそうである。
たまに、というか昔から「人を好きになったりしないの?」と言われ、「もしかするとそうかもしれないなぁ。」的なぼんやりした答えをしていた。
年をとるに従って、嫌いなモノもどんどん減っていき、好きなモノも比例して減っていく。
多分もう人を好きになったりどんどんしなくなる気がするのですよね。恋愛どうこう以前に。
なんとなく、自己憐憫投稿のようでいて違うのです。
好きにならない割に案外続くのです。巨人ファンではないけれど、たとえば野球は始めてから30年。「ああ、あの選手がいい、このトレードがいい、今年はココのチームがいい。」野球に限らず軒並み続く。
野球でいうならやっぱりいろいろなことに胡座をかいているような所もあって、相変わらずで、しかもダサくもあって、自分の息子に手放しでやらせるかは迷うところもあるのが実際の所。
「それでもやっぱり好きなのかな?」
みたいなクソダサいことではなく「たとえば野球のことは特に好きというわけでもないし嫌いなところも多いし、他に目移りしていることもたくさんあるけど愛情がある」ということなのではないかと思うのですね。
個人的には飽きっぽく、クリスマスでさえ「去年やったじゃん。」と思うくらいなので、好きだとか嫌いだとかそのときの気分のようなモノを信じていない。
ちょっと嫌いなモノも何度か接しているウチに好きになるかも?なんていうのも信じていない。むしろ今好きなモノや人もいつか嫌いになって終わるかもね、と冷ややかにみている。
実際、これだったらずっと好きでいられそう、と思ったことも予期せぬことで強制終了だったり、ケンカ別れだったりいろいろとある。
いろいろとあるに、「好き」も信じていないのと同じくらい「嫌い」も信じていない。
だからある程度の期間愛情をかけたことが、何かの拍子に嫌な終わり方だったとしてもそこにはこだわらない。「終わりよければ全てよし」はさほど信じないし「最後ですべてが台無し」ともさほど思わない、ようになった。そういう意味では「FA選手を裏切り者だ。」とかいう意見はそぐわない。
もしかしたら実績とかを評価する保守的な普通の40代になってきたのかもしれない。
まあでも好きなひとモノ、嫌いなひとモノが減っていく代わりに知らない間に愛情をかけてきたものは気づくと佇んでいる気がする。
「熟女」というのは一定に認知されていて、「こんなおばさんですけどごめんなさいね~♪」と好きも嫌いもなく一定水準の丁寧な気遣いができる。
ファンだ!とか好きだ!とかいってやってることはストーカー的なことしか出来ないより、1番好きというわけじゃないけど、逆に1番のひとに会う前になんか落ち着くから行っちゃおうかなぁ、というもの。こっちの方が営業的にも安定するし。
「熟オジサン」というのはあまり聞かないけれど、近いモノで言うと
「おっさんレンタル」のおっさんだろうか。
でも時給1000円は嫌だ。