自分でやらなきゃダメ、というのも当たり前のように思っていたけれど、
人によっては、あるいは段階によってはいろいろなかかわり方が必要だな、
とも思うのです。
特に社会が劣化して考えることをしないシステムになっている中で
自分で考えろを過度に押し付けるのもいかがなものかと。
20代の頃、やたらと「お前の生きているストーリーはなんだ、人間というのはストーリーがなければ生きられない」
などと問うてくるゼミのメンターがいたが、今にして思うに、「あんたはそれが飯の種だからやってるだけだろ」
というのが答えである。
宮台先生なども年取ってからはミイラ取りがミイラになった、というか、
西部邁先生風の説教テイストと田原総一朗的な演説テイストが入ってきたw
「おれはナンパばっかりしてちゃらんぽらんのクズだった。そんな俺でもできたんだ!だからやれよ!」
って喝破されて、真面目そうで奥手な男子学生は真に受けちゃってる感じだけれど、
「それをいうなら、アホだと言っていた西部さんに同じこと言われたときにやっておけよ!」
とも思うのだったw
「当時アホだと思ってた西部さんにいわれても聞かず、さんざんやりたい放題やってたクズの俺でもできたんだから、
どんなクズもいつかは変わる可能性があるってことだよ。」と翻訳したくなる。
大変残念なことに、ひろゆきの相当劣化したような学生だとかyoutuberみたいな論法で
「んなこというけど、やりたい放題やってきて変われたっていうなら、俺もやりたい放題やってから変わるっす。」
といえるクズの方が将来的にうまくいく可能性が高い。
最近は「昔は俺もヤンチャしてて~」みたいなのも減ってはきたものの、相変わらずな要素はある。
「あの時」の答え合わせをして、実際に役立っている回答というのは声なき声、としてはてなブログにしかでないw