振り返るとマイノリティの方に自然と関わることが多かった。外国人、発達障害、LGBTなどなど。
自然と関わることが多い、というのは特に意識して何かをするというわけでなく、普通に生活しているとそうなるということである。
そこで思うのが「障害は個性である」というフレーズ。
別に文句をつけようとかではなく、その心根が気になる。
それをそのままタイトルにしたのが「差別をなくして差別化する」である。
1つ目の差別というのはなくそうという差別であり、差別化については特色を出して勝ち抜かねばという現代のサバイブ原理でもある。
発達障害についても最近は看板はあえて出していないのも関わっているが、差別された人が差別をなくすかというとそうとも限らないのである。「私のやり方でないと差別は無くならないのだ!」という「差別をなくそうという差別化」が始まる。当然無意識である。意識していたとしても差別を嫌う自分が差別をしているという事実はなかなか受け入れられないだろう。
差別をなくすというのはあくまで手段であり、一方の差別化の原理もこれまた手段である。双方が目的とするのは「認めてもらえること」「愛情をかけてもらえること」である。
差別も差別化もなくならなくてもいいけど、認めてあげることや愛情をかけることが「ある」方がいい。
「お互いが認め合う社会を作る」ではなく、今そこで認めればいい。
社会を作ろうという発想は愛情や承認を保存したり安定供給したいという心のダムを作りたいということだと思う。それもあるに越したことはない。
でも今愛情や承認の雨をふらそうと思えば今すぐ降るのを忘れがちであったりもする。