業務報告書

主にお友達のブログの読者になるためのブログです。

責任論と主体論

責任。


日本あるいはアジアでは基本的に責任概念が懲罰としてとらえられているのだな、と実感する。多かれ少なかれその手の責任はどこの国であっても忌避したいと思うけれども、アジアにはやはりない。


自分が思うに、責任とはとればとるほど自由になれる、主体性が発揮できるもの、のように思う。自分で選んでその反応を受け取りますよ、とも言えるし、

反応を受け取りたいから自分で選ばせて、ということだとも思う。


自分がやると失敗するからだれか決めて、でもいいと思う。

誰かに決めてもらうことだってあるし、決めてもらう人や事柄を選ぶ余地があれば、それはそれで小さくはなるものの責任や自主性の余地がある。


他人に決められたくない、というのも善し悪しやあるいは程度問題である。

この程度問題を選ぶのが本来の責任論なのかと。


そういう観点からすれば、小さなころから責任を取らせるのは

主体性や能動性を発揮するためのベースになる。


ただ大人が責任取りたくない、と平気でいえてしまう中で、

かつしかたないから誰かが責任をとらされる、というのは

奴隷の責任論であって、そもそも責任といえるのかどうかも疑問なレベルである。