本当の友達論を出したのはいわゆる「普通の友達論、知り合い論」があるからである。
○フレ、ペンパル、添い寝フレンド、メル友(死語)、飲み友達、などなど。
友達論に限らず恋人、配偶者などなどいわゆるところの「どういうご関係?」というのが人間関係の基本である。
こういう人間関係のルールやらがわからなかったり、面倒くさい!となるとき「本当の友達待望論」がやってくるように思う。
偉い人と写真撮ったりを始め、「○○さん知ってますよ~!」的な会話も含めて社交技術であったりする。外交活動などの大半はこうしたことでもある。
「目上の人がなぁ、お前に頭下げてるようにみえるけど、お前にじゃなくてお前のポジションに頭をさげてるんだぞ!」と後輩に熱く語っている先輩がいた。
その後輩は「先輩は間違っている!」などとやり返していた。
このやりとりが安居酒屋にまでなだれ込み、違う先輩が黙って聞いて「男ってぇのは背中で語るんだぁ」的なお約束の酔っ払いトークが始まる。
明け方ラーメンでも食べて「青春だぁ!」と。
こんなぐたぐたな「本当の友達」あたりは比較的牧歌的でよい気もするが、いろいろなしあわせをつかみ取る上では不器用というか遠回りが過ぎる気もする。
遠回りであってもつかみとれればいいけれど、一人、また一人といなくなり、気づくと一緒に飲んでいたはずの本当の友達は翌日の朝二日酔いながらも子供をつれて一緒に出歩くような居場所をつくっていく。
いつもどおり話は飛んでしまうわけだけれども内省的であることが「本当の友達」の要諦であることはつかめた。
次回は「本当の友達」とは逆の「パリピ」論に論を移す。